原爆

という言葉はどうしても私の頭から切り離せない。理由は祖父だけが被爆者だったから。
生前、祖父から何故被爆したか教えてもらえなかった。否、戦争の話すらしてもらえなかった。
しかし、平和公園原爆ドームだけは見に行けと言われた。
時は流れ、祖父が原爆が落ちた後、広島市内に入り被爆したことを知った。
怒りの広島、祈りの長崎、と言われるが、少なくとも私は広島の方が原爆やアメリカ人に対する怒りの姿を見たことがない。
それよりは、被爆した経験を他の方に必死に伝えている。それこそ誰に対しても。例えそれがアメリカ人に対しても、みんな仲間だという感じで。

祈りの長崎と言われる長崎は、象徴というものがない。平和公園があるが、原爆ドームのような当時を思わせるものが全く。
キリスト教信者も教会も多く、尚且つ浦上天主堂の上に原爆が落とされたのに。
実はその教会は戦後立て直され、被爆した壁の一部は長崎の平和公園にひっそりと遺されているらしい。
立て直された教会には、被爆したマリア像があるらしい。その姿をテレビで見て愕然とした。
その姿は首から下がなく、目は真っ黒。…衝撃だった。
他に何体も像があるらしいが、このマリア像の姿をアメリカ人が見、理由を知った時、どう感じるだろう。広島の原爆ドーム、資料館はあくまでも日本人からの視点からのものの為、見ることができるのかも(それでもかなり衝撃を受けている姿を見たことがあるが)知れないが、自分達の信仰の象徴を戦争で自分達の手で原爆で壊し、あの様な姿になり。
その姿を見ても、核兵器が、戦争が正義といえるのだろうか?
http://www1.odn.ne.jp/uracathe/


はだしのゲンのように、広島を舞台に原爆の話が描かれた作品が多く発表され、原爆ドームのような象徴的な建物が遺されているため、「怒りの広島」というイメージが強いと思っていたが、浦上天主堂のマリア像の姿を見て、「祈りの長崎」の意味が私の解釈と全く違うことに気がつかされた。


誰に何に対する怒りなのか?
誰に何に対する祈りなのか?

因みに私はキリスト教信者ではないし、偶像崇拝もない。むしろ宗教は大嫌いである。しかし人の考え(信仰心)を否定する気もない。今回マリア像に衝撃を受けているのは、原爆と祖父の記憶が繋がり、人の形をしたものに感覚的に反応してしまった為。つっても、人の形をしたもの(人形、写真、絵)を飾るのは気持ち悪いんで全く無いが。