原爆_2

昨日の続きです。

怒りの広島、祈りの長崎、という言葉はアメリカからの目線の意見だと思う。
怒りを表に出さない広島の原爆の語り部の方々
ただ静かに見つめる浦上天主堂のマリア像
今の私にとって人の形をしたマリア像のほうが衝撃が強い。
何故ならば、祈りの長崎、という言葉のイメージが、原爆に対する怒りを感じさせない。原爆ドームのような象徴的な建物を遺さなかったのは、原爆の記憶を長崎の方々は思い出したくないから。そう思っていた。

しかし、浦上天主堂のマリア像は被爆マリアとして飾られ、原爆に関する資料の展示をされているらしい。
祈りの場、浦上天主堂に原爆に関する資料を声を遺している。
表だって原爆の爪痕を遺している広島に対する言葉として使われた「祈りの長崎」が、
「祈りの場に長崎の原爆に対する本当の声がある」
そういう意味合いに聞こえた。


もし、長崎に行くことがあれば、長崎の原爆に対する遺された声を聞きにいきたい。例え、祈りの場であっても。